河鍋 暁斎
Kyosai Kawanabe
It is officially recognized by Japan Ukiyo-e Society
【作家紹介】 天保2年(1831)-明治22年(1889)
幕末から明治にかけて江戸を中心に活躍した絵師。狩野派的絵画・美人画・動物画・戯画・仏画・風刺画等、多岐にわたる主題に精通した。土佐派や四条円山派などの伝統的なものから、浮世絵や西洋画に至るまで、知りうる限りの画法を熱心に研究していたという。7歳にして歌川国芳門下生となり、のちに狩野派の前村洞和に再入門。洞和は暁斎の画才を賞し彼を「画鬼」と呼んだ。安政5年(1858)、狩野派を離れ「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き戯画・風刺画で人気を博した。
明治3年(1870)、書画会において新政府を批判する戯画を描き、筆禍事件として大番屋へ捕らえられた。翌年に放免、以降「暁斎」を名乗る。 明治時代の御雇外国人に高く評価され、鹿鳴館の建設者ジョサイア・コンドルを弟子にとった。明治6年(1873)ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、日本庭園入口に立てられる。1876年(明治9)のフィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品。最晩年、ドイツ人医師エルヴィン・ベルツに「日本最大の画家」と評された。 明治22年(1889)、胃癌のため逝去。暁斎は死の3日前、絵筆を取りたい欲求に抗し難く、 枕後ろの障子にやせ衰えた自分の姿と、もうすぐ自分が入るであろう角型の桶を描いたという。
【所蔵】 ロサンゼルス・カウンティ美術館、フリーア美術館、アムステルダム国立美術館、ヒューストン美術館
【国内展覧会】 2015年『画鬼・暁斎ーKYOSAI』、2017年『ゴールドマンコレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力』